『イジメを見ているだけで止めないのは、イジメているのと同じだ』
誰もが一度は聞いたことのある言い回しではないでしょうか?
なんだか、モヤッとする表現ですよね。今回は、心理学の観点からこの考え方に異議を唱えたいと思います。一つの参考にしていただければ幸いです。
ちなみにこの話は、先日クオラで頂いた質問に答えた内容を掘り下げたものになります。
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傍観者と加害者は違う
結論から言いましょう。
『見てる人』と『加害者』は別物です。一緒に扱うべきではありません。
おそらく『止めないのは同罪』と発言する真意は『いじめをやめさせたい』と願う心なんでしょう。でも、この言い回しは逆効果を生み、イジメを増やしてしまう可能性が高いことをわかっておいてほしいのです。
早速、解説していきますね。
3つの視点1『被害者』
この問題を考えるためには3つの角度から観察する必要があります。まずは、被害者の視点。いじめられてる人です。
いじめられてる人からすれば、『なぜみんな止めてくれないのだろう?』と考えることはあります。こんなに苦しんでいるのに、誰も助けてくれない。理不尽だ。そう考えるものです。
でも、区別はつきます。ガンガン自発的にイジメてくる相手と、ほとんど関わってこない相手は違うのです。止めてくれないというだけで、後者にはそれほどの害がありません。両者は大きく違うのです。
3つの視点2『傍観者』
次は傍観者。つまり『見てる人』です。
イメージしやすいように、学校でのイジメを想像してみましょう。クラスに30人くらいの人間がいれば、どこかでイザコザはあります。噂程度に問題を耳にしていることもありますよね。
自分とはほとんど交友関係もなく、話したこともないグループでイジメがあるらしい。そんな話をチラッと聞く程度。
さて、そんな日常である日先生に言われます。
『見ているだけはイジメているのと同じ、同罪です』と。
・・・・どうですか?
めちゃくちゃモヤッとしませんか?
『いやいやいやいや!自分関係ないですし!』
『なんでいつの間にか罪人扱いなんですか!?』
こう思うのが普通でしょう。少なくとも僕はそう思います。よく知りもしない問題を突然自分の責任にされているのだから、気持ちのいい状態じゃないですよね。
2つの視点からの矛盾
ここまでで『被害者』と『傍観者』の視点を見てきました。どちらからも「見てるだけはイジメと同じ」発言はおかしいことがわかっていただけたんじゃないでしょうか?
さて、ではなぜこのような表現がされてしまうのでしょう?
答えは3つ目の視点にあります。
3つの視点3『第三者』
答えは第三者です。学校でのイジメなら『親』『先生』。職場でのイジメなら『別部署の上司』『関係性の薄い同期』などです。
彼ら第三者は情報不足にあります。子供から又聞きで知っただけの内容、同僚から愚痴を言われて聞いている内容、どれも断片的で公平な審査をするには内容が足りないのです。
そんなとき、彼らはどうするでしょうか?
正解は『どちらにもつかないで、イイ感じの事を言う』です。
第三者は発言を求められた時、情報不足にありながらも自分の意見を表明しなくてはいけないと感じます。
第三者がよく使う『ずるい』表現
『まあ、いじめられる方にも問題があったよね』
『どっちも悪い所あるんだからさ』
こんな表現、聞いたことありませんか?
まさにこれが『どっちにもつかないで、イイ感じの事を言う』状態。なんだか含蓄があるような雰囲気はあるものの、はっきりとした立場を表明していません。
コミットメントという言葉を聞いたことがありますか? 社会心理学の言葉です。平たく言えば『言ったことは守らないといけない』気持ちをもつことを指します。
人は発言によって立場を表明すると、その立場を一貫させなくてはいけなくなってしまうわけです。
そこでよく用いられる方法が、どちらにも味方せず、それっぽいことを言う方法。
まさに『見ているだけの人は、イジメを行っているのと同じ』とは、第三者の言葉なのです。
なぜ傍観者と加害者を同列に扱ってしまうのか?
少し疑問が残ると思います。それらしいことを言うにしても、なぜ傍観者を加害者側に回す必要があるのでしょうか。
答えは先ほどと同じ。情報不足にあります。
第三者はその場にいないので、どうしても細やかな判断ができません。それ故、伝え聞いた内容のみで判断を行う必要があります。
すると、ざっくりとした判定を行うことになり
被害者→かわいそう
加害者→悪い奴
傍観者→止めればいいのに
このようにシンプル化して考えてしまうのです。
そもそも人間の脳は複雑な処理を嫌います。たくさんのカロリーを消費してしまう上、ストレスのかかる動作なので極力避けるように脳が進化したんです。
そのため、シンプル化はさらに進み、『対立構造』に至ります。
人間は対立構造を好む
そっちとこっち。敵と味方。巨人ファンと阪神ファン。野球部とサッカー部。理系と文系。
人間は物事を2つに分け、対立させることが大好きです。冷静に考えればぶつかっていないような内容でも、なぜか『お前は〇〇派ね、じゃあライバルだわ』みたいに対立構造にしようとするんです。
これは先にも述べた通り、シンプルである方が考えなくて済むことが理由。
さらに言えば、それが『ドラマチックであるから』という理由でもあります。
ネガティブバイアスとドラマチック本能
人は物事を捉える時、ドラマチックに解釈しようとします。またその解釈はネガティブな方向に引っ張られやすいのです。
例えば人類の未来について語るとき、多くの人が悪い未来を予想します。
- 進化し過ぎたテクノロジーが人を滅ぼす
- 新しいウィルスが蔓延して人類滅亡
- 第三次世界大戦で人口激減
あげていくとキリがありません。未来なんてどうなるかわからないのに、ほとんどの人が暗い未来を想像するんです。
これにはしっかりとした理由が存在します。ネガティブバイアスと言うものです。
ネガティブバイアス
ポジティブな物事より、ネガティブなことの方が6倍も印象に残りやすい。そんな性質を私たちは持っています。
なんだか損な性分に感じられるかもしれません。
ところが、ネガティブバイアスは悪い性質では無いのです。
悪い未来を考える、とは『危機予測』でもあります。私たちのご先祖は、危険な居住地を避け、敵が来そうな場所から逃げ、災害が起こりにくい場所を選び生き延びてきたんです。
つまりネガティブバイアスは人類が生き残るために身に付けた必須の能力といえます。
しかし現代では生存できる事は当たり前。ネガティブバイアスは気をつけないと『思い込みに陥りやすい性質』になってしまうんです。
ドラマチック本能
そこで登場するのがドラマチック本能。名著『ファクトフルネス』で登場した概念。平たく言えば『人は何かを解釈するときにドラマ仕立てにしがち』って話です。
例えばいじめ問題も『家庭に複雑な事情がある』とか『実は無関係を装っている子が黒幕』のように『ドラマっぽい脚色』をして解釈しようとします。
世間だと陰謀論とかが該当しますね。
冷静に考えれば根拠なんて存在しないのに、まるで本当かのように信じ込んでしまう性質が人間にはあるんです。注意が必要ですよね。
ドラマチックな『傍観者も実は加害者だった』
無関係だと思っていたら、実は害を与える側だった。。。
なんていうか、ドラマ性があるじゃないですか。こういう方向に人は引き寄せられてしまうんですね。
だから、『関係あるかもしれないし、ないかもしれない傍観者』は宙ぶらりんにはなりにくいんです。善か悪に分類されてしまう。そしてそれはドラマチック本能によって『悪』に振り分けられやすい。
なので単純化とネガティブバイアス、そしてドラマチック本能の効果によって『傍観者も加害者』という図式になってしまうのです。
『見てるだけは悪』発言でイジメが増えるメカニズム
ここまでで、『見てる人もイジメてるのと同じ』論がおかしいこと、そして第三者が出している意見でしかないことをお伝えしました。
論理的に考えればしょうもない話だと言えます。しかし、本当の問題はこの論法が『あたかも本当のように信じられている』こと。
コミットメントも、ネガティブバイアスも、ドラマチック本能も、第三者だけに効果があるものではありません。傍観者にも効果があるんです。
ある日いきなり『君もイジメに加担しているんだよ』と言われた傍観者はどうなるでしょう? いままで『なんとなくイジメがあるらしいことは耳にしていた』レベルから、突然『加害者』のレベルまで押し上げられることになります。
この宣言は一見無理があるように思えますが、実のところかなり効果的です。なぜなら、ドラマチックですから。
傍観者は、まるで何も知らなかった主人公が突然世界の真実を知ったかのような『ドラマチックな真実』を受け入れてしまいます。そして、『自分自身に対するイメージ』も上書きされてしまうわけです。
『自分はイジメをする側の人間だ』と。
あとはセルフイメージに従って『イジメに積極的に参加する』ことになります。
セルフイメージの重要性
セルフイメージは大切です。知らず識らずのうちに行動を変えてしまう力があるんです。
例えば『お宅に自然環境保護の看板を設置させてくれませんか?』とお願いをする社会心理学の実験があります。普通は景観が悪くなるため嫌がり、断る人が多いのですが、あることを先に行うだけで断る人がかなり減る事がわかっています。
それは『事前にアンケートを取る』のです。
『あなたは自然保護に興味がありますか?』と。
まあ、こう聞かれれば『そうですね』と答えるでしょう。NOといえば印象は悪いですし、だれもが自分は善良なタイプだと思いたいものです。そして、数日後に上記の看板を立てる依頼が来ます。すると、それだけで看板設置にOKを出す人が増えるんです。
『私は自然保護に意識の向いている人間だ』というセルフイメージが行動を変えているんですね。
つまり、『自分はイジメに加担する人間だ』と考えれば、本来はイジメに加担していなかった人間が、加害者に変わってしまうリスクがあるのです。
なので『見ているだけは加害者と同じ』は言うべきではないんです。
本来あるべきイジメの防ぎ方
人の行動を変える伝え方には2つの軸があります。
- 好きなものに寄せる
- 嫌なものから遠ざける
基本的には上記のどちらか、もしくは混合にすることで相手を変える力を発揮できるわけですね。
『見てるだけは加害者』という言い回しは「嫌いなものから遠ざける」に分類できます。加害者になりたくないからイジメをやめる、って算段です。しかし、ここまででお伝えしたとおり、相手にラベリングすることは性質を変容させる効果があるので、諸刃の剣といえましょう。
であれば、少し軸を変えましょう。
『イジメをしているとダサい』みたいな空気感を作り出したり、イジメをしている方が気まずくなるような状況をつくるのです。これも、「嫌なものから遠ざける」方向ですよね。
更に組み合わせて「好きなものに寄せる」も使ってみましょう。すなわち、信頼することです。
『君はイジメをしない人間だと信じてるよ』と表明すること。
非力に感じるかもしれませんが、これもセルフイメージになるので影響は大きいんですよ。どうせなら『お前も加害者』なんて罪悪感を煽るよりも、『信頼』や環境づくりに力を入れたほうが安全だし気持ちがいいのではないでしょうか?
まとめ
いかがでしょう? なるべく第三者は『見ているだけは加害者と同じ』とは言わないほうがいいことがわかっていただけたんじゃないかと思います。
イジメを無くすためにしている行動が逆効果になってしまう恐ろしい現象なので、ぜひ減らしていきたいところですよね。
参考にしてみてください。ではまた。
【参考図書】
コミットメントと一貫性、セルフイメージ
ネガティブバイアスとドラマチック本能、対立構造
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